庶民が家紋をつけるようになったのはいつから?
家紋が庶民にも普及しだしたのが、江戸時代のことである。
当時、武家や公家以外の庶民は、名字を持てなかったので、家紋や屋号を家としての目印や標識として用いられることになった。
将軍や大名と同じ家紋にしない限り、伝統的な家紋を使っても咎められなかったのも背景にある。
特に商人や職人にとって家紋は重要なものになっていく。町人も袴や羽織を身に着ける者が多くなり、「紋上絵師(もんうわえし)」と呼ばれる家紋のデザイン家まで登場した。
庶民の生活が華やかになる元禄時代に入ると、家紋の使用はさらに広がり、家紋の図柄も優美・華美になっていった。
左右や上下対称の家紋や丸で囲んだ家紋はこの時期に増えたと考えられている。
当初はファッション感覚でつけていた家紋であったが、武家に伴って子孫に受け継がれるようになっていった。
名字を持てない庶民にとって家紋は今以上に貴重なものだったのだろう。
江戸時代の家紋のルール
江戸時代以前は菊と桐が禁止されていたが、江戸時代に入ると徐々に緩和されていった経緯がある。
とりわけ豊臣家の「五三の桐」は庶民の間でも人気だったそうだ。
将軍家が使う葵は特に制限されており、享保7年に葵紋の禁止令が出されている。葵の紋を使ったことで死罪となった浪人がいた。
将軍・徳川綱吉は長女の鶴姫を溺愛していたため、鶴字法度を出し、庶民が鶴字・鶴紋を使うことを禁じている。
明治時代になると名字が許されるようになる
明治時代に入り、庶民にも名字が許されるようになると、どの家も自家の家紋を持つようになった。
式服として男子は紋付き袴、女子は紋付きの着物を着用するようになる。
式服は儀式のときに用いられることから、紋をつける位置、形、大きさも一定し、現在に引き継がれている。
日本に多い名字と代表的な家紋
佐藤・源氏車など
日本で一番多い名字である佐藤は、特に東日本で多く見られ、藤原家の末裔とされている。家紋には公家の乗り物だった牛車をモチーフにした源氏車を用いられることが多い
鈴木・稲紋など
関東に多い名字だが、始まりは和歌山県の穂積氏流鈴木氏が始まりとされている。源平合戦の頃から東海から東北にかけて広がっていった。
家紋はルーツである穂積氏にちなんで稲紋が使われている。なぜかというと積んだ稲穂のことを穂積や鈴木といったからである。
その他には神具として使われていた鈴をモチーフにした鈴紋を用いる家もある。
家紋には由緒など意味が込められていることが多いため、その家がどのような商売をしていたのか、どんな歴史があるかわかることも多いだろう。